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2006年12月

1/2(二分の一)報道

今日のテレビで、学校の体育教師が生徒にケガをさせ、減俸……というニュースを見た。
なんでも、体育の授業中にかたづけるよう指示したマットの上でふざけていたので、カッとなって生徒の体をそのマットに叩きつけたりしたそうだ。
50代のこの教師は生徒に対し、申し訳ないことをした、という謝罪コメントを出していた。

いい大人なんだから、カッとしたからと言って相手にケガをさせてはいかんだろう。
ましてや、ひとを育てる立場の教師なら、なおさらだ。
でも、自分が先生の言うことを聞かずにふざけていたためにこんな事件になってしまい、しかも先生が処罰されてしまったと聞いて、当事者である生徒(とその親)はどう思っているのだろう?と、私はちょっと考えてしまった。
ケガをさせた教師のコメントを報道するのなら、もう一方の生徒(もしくは親)のコメントも取ってほしいものだ。
教育者でありながら生徒に暴力をふるってしまった教師が処罰されるのは当然だが、そうなるきっかけをつくった生徒も、きちんと謝罪しなければいけないと思うのだ。
そして、マスコミはそれも報道すべきではないのだろうか?

こういう報道を見るたびに感じるのは、情報が一面的に過ぎるということだ。
今回の事件に限って言えば、どうして教師はカッとしたのか(注意しても生徒が言うことを聞かなかったのか、それとも注意せずにいきなり暴力に訴えてしまったのか)、状況がよく判らない。
なのに、教師側の「生徒に申し訳ない」というコメントだけを報道するので、視聴者サイドは「最近の教師はダメだなー」という印象を持って終わってしまう。
なんだか、報道のしかたに恣意的なものさえ感じてしまう。
もちろん、時間枠の決められたテレビ番組内で複数のニュースを流すのだから、ひとつひとつについて事細かには報道できないだろう。
でも、それだったら、教師のコメントも流すべきではないと思うのだ。
事件に興味を持ったひとは、勝手に新聞なりネットなり週刊誌なりで情報を入手すればいいのだから。
中途半端な情報だけを与える報道は、先入観を植えつけかねない。結構危険なのではないかと思う。

いじめ問題についての報道もそうだ。
自殺した子供の親のコメントは報道されるが、いじめていた側の子供(とその親)についてはまるでコメントが流されない。
もちろん、加害者側の子供の将来を考えて報道を控えるという姿勢は必要だが、実名や写真を伏せてでも、今どう思っているのか、そのコメントは聞きたいと思う。
たぶん、自分がいじめていた相手が自殺してしまって、その子はとてもショックを受けていると思う。
後悔もしているだろう。
(それとも、まるで平気でいられるほど今の子供達の心は荒んでしまっているのだろうか……?)
自分のしたことを悔いているならその罪悪感を吐露することで、また、罪悪感を持っていないのであれば、それを公に発表させれば当然世間から非難を受けるだろうから、その姿を見せることで、今現在軽い気持ちでいじめをしている子供達を踏みとどまらせることができると思うのだ。
そうして、その報道を学校の教室で生徒達に見せ、教師と生徒とが一緒になって考える場をつくればいいと思う。
いじめをしていた子供は登校停止、なんていう馬鹿げた施策よりもよっぽど抑止力になりはしないだろうか?

周知させるべき情報とそうでない情報。
その取捨選択をするのは、報道人であってはいけないと思う。
それは、受け取り側である視聴者の役目だ。
当事者の片方のコメントだけを報道することで、世論を操作する。
意図的であれ、無意識であれ、それをしてしまったら純粋な報道とは呼べないだろう。
マスコミ業界に従事するひとびとは、もう少し自分の持つ影響力と責任を自覚しなければならないのではないだろうか。
そして、それを受け取る我々も、与えられる情報を鵜呑みにせず、自分でも疑問を持って調べるようにしなければならないんだなぁ、と反省した今日のできごとでした。

氷上の貴公子

なんの話かと言えば、フィギュアスケートなんですな。

私がフィギュアスケートというものを初めて観たのは、当時アイスダンスの覇者だったベステミワノワ・ブーキン組が引退(だかプロ転向だか)するという年のNHK杯だったと思います。
今思えば、たぶんエキシビジョンの演技だったのでしょうが、何もないただの白い氷の上に椅子をひとつ乗せただけで独自の世界をつくりあげてしまうふたりの演技に、強い衝撃を受けたのを覚えています。
これはいったいなんなのだろう、と思い、しばらくはテレビ放映されるフィギュアスケートの大会を余さず観てました。

フィギュアにはどうやら男子・女子シングルとペア、アイスダンスという4種目があるらしいと判り始めた頃。
出会ってしまったんですよ。
氷上の貴公子。
当時はソ連の、後にウクライナ代表となったヴィクトール・ペトレンコ選手。

今思い出すだけでもうっとりしちゃうんですが(笑)このひとのスケートは本当に美しかった。
もちろん、4回転ジャンプに正確なステップ、速いスピンと、技術力も高かったのですが、それより何より、表現力が豊かでした。
もう彼が氷の上に立っただけで、世界が変わっちゃうんですよ。
ジャンプとかしなくても、ただ氷の上を滑るだけで観客から拍手を貰えるような選手でした。

この頃が、私のフィギュア熱最高潮時代でした。

ペトレンコ選手のちょっと後に出てきたフランスのフィリップ・キャンデロロ選手も特徴のあるおもしろい選手でしたし、同じくフランス女子のスルヤ・ボナリーさんも迫力があってよかったなぁ。
アイスダンスのウソワ・ズーリン組とかモニオット・ラバンシー組とか、オリンピックの時にライバル襲撃疑惑で脚光を浴びてしまったトーニャ・ハーディング選手も私は結構好きでした(^^;)

昔は個性的な選手がたくさんいたように思います。
演技もそれぞれカラーが出ていておもしろかったし。
最近はみんな高得点を取ることばかりに意識が行っていて、むだな演技を省いちゃうので、私はちょっとつまらないかな。
まあ、それだけ競技として完成されてきたということなのかもしれませんが。
(昔のフィギュアスケートって、主観でしか点数つけられないという部分が多分にあったような気もするので。)

そんなこんなで、ここしばらくはあまりフィギュアスケートを観てなかったのですが、この間のオリンピックあたりからまた観始めてます。

それでグランプリファイナル2006。
私の周りでは真央ちゃん銀メダルでかなりガックリしているひともいました。
今日も伊藤みどりさんがエキシビジョン前のインタビューで、しきりと「なんでここでもう一回トリプルアクセル飛ばなかったの!?」と訊いてましたが、私は選手本人が楽しく滑れていればそれが一番いいと思うんですよね。
もちろん、伊藤みどりさんはチャレンジ精神のことを言っていたのかもしれませんが、なんとなく「飛べば金を取れたのに!」と言っているように聞こえてしまって、私はちょっとなんだかなーと思ってしまいました。
真央ちゃんって、なんだかあんまり勝利に対してガツガツしてなくて、自分がどこまでできるかの挑戦を楽しんでいるような、ちょっと飄々とした感じがして私は好きです。
なので、周囲の期待に押し潰されることなく、いつまでもスケートを楽しめる選手でいてくれたらいいなぁと思います。
(なんて、実は凄く嫌々滑ってたらどうしよう!?)

私のなかのカリスマ

私には昔、姿の見えない友達がいた。
いや、友達と呼ぶにはあまりに完璧で美しかったそのひとは、私にとって『指導者』だったに違いない。

それは、彼であり、彼女であり、そのどちらでもなかった。
ただいつも、私の傍にいてくれた。
そこに言葉が存在していたかどうかは、今となってはもう判然としない。
だが、彼(彼女)がいるがために、私は律しられていた。

私は、彼(彼女)になりたかったのだ。

実際、彼我を混同していた部分もあったかもしれない。
(だからその頃の私は、むやみと自信過剰で鼻持ちならない子供だった。)

その日。
夢の中で、私は彼(彼女)になりきっていた。
彼(彼女)であるところの私は、誰かに追われて高い壁へと突き当たった。
いつも彼(彼女)がしているように、身軽に飛び越えようとした時。
私はふと、躊躇した。
私がこんな高い壁を飛び越えられるはずがない。
何故なら——

私は彼(彼女)ではないのだから……。

目覚めた時、彼(彼女)の気配は、もはやどこにもなかった。

今思えば、あの日私は挫折したのだろう。
どんなに頑張っても、彼(彼女)のような美しく完璧な存在にはなれないのだと。
あるいは、徐々に汚れていく私を、彼(彼女)の方が見捨てたのかもしれないが。
指導者を失ってからの私は日ごとに堕落し続け、今や彼(彼女)には見られたくないほどに醜い。
だから、あの日彼(彼女)と訣別してしまったことに、どこかで安堵している私もいる。

けれど。

もし、今際に至ってすべての罪が赦され、魂の手を引いてくれるなにものかの存在があるのだとしたら……。

それは彼(彼女)であってほしいと、今も思うのだ……。

和製ヤヌス(?)

Haniwa 埴輪です。
12/2の読売新聞で見たのですが、二面相の埴輪が見つかったそうです。

出土したのは、和歌山市の岩橋千塚古墳群から。
穏やかな表情の顔と険しい顔の両面を持った、珍しい埴輪だそうです。
何か呪術的なものではないだろうかとも言われていて、更なる研究成果が待たれます。
一見「ビーグル犬?」と思わなくもないのですが、耳のように見えるのは下げみずらだとか。

こういう記事を読むたびに、毎回凄いなーと思うんですよ。
いや、何がって、土くれの中からこの埴輪の破片を拾い出して、さらにくっつけたり離したりしながら復元しちゃうっていうのが……。
今回の埴輪は、写真を見る限りでは結構大きな破片で見つかったようですが、出土する遺物の中には数ミリしかない鉄やら瓦やらの欠片もあるわけですよ。
そんなもんが土の中から出てきた時に、「これは貴重なものだ!」とよく見破れるなーと。
それがプロなのかも知れませんが。
一般人にはただのゴミにしか見えないものが、彼等の目にはピカ~ッと光って見えるんでしょうか。
まあ、中には研究者が打ち捨てておいた土の中にあった欠片を、たまたま発掘にボランティア参加していた小学生が「これは遺物じゃないのか?」と持ってきて大発見!って事もあったらしいですが。

でもって、探し出すのも凄いけど、それを復元しちゃうのがまた……。
何日か前の新聞に最古の計算機の復元図なんてものも出ていましたが、あんなのもしかして研究者が三人いたら三様の形になってしまうんじゃないだろうか、なんて思ったりします。
以前、発掘された恐竜の骨の復元で、研究者によって鳥のようになっていたり、ステゴサウルスみたいになっていたりしたのを見た事がありますが、こういうのってやはり個人差が出るんじゃないでしょうかね。
大枠は決まるんでしょうけど、足りないパーツもたくさんあるでしょうし、それを埋めていくのは、個人の知識だったり経験だったり、想像力や最後は美意識だったりするんだろうなぁ。
でも、そういう部分が研究の楽しさでもあるんでしょうね。

てなわけで、ビーグル埴輪(違うって)続報に期待です。

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